第一章 谷中輝雄はどのように精神科ソーシャルワーカーとしての価値を形成したか
第三節 「健康な部分」と「生活のしづらさ」の形成過程(2/3)

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Ⅵ. 結果

1. 1970年代の「健康な部分」と「生活のしづらさ」

以下表2は、1970年代における各重要概念の頻出度を表したものである。

表2を見ると、1974年より「社会生活上の困難」「社会的弱点」「とまどい」等の言葉で語られていた「生活のしづらさ」という考えは、徐々に「生活しづらい」という表現が用いられ、初めて「生活のしづらさ」という言葉が使用されたのは1979年の文献であったことが分かる。

一方で、「健康な部分」という考えにつながる言葉も1974年より使用されるが、「生活のしづらさ」という考えにつながる言葉と比較すると、まだこの時代はバリエーションも頻出度も少ないことが分かる。

以下に1970年代における「健康な部分」と「生活のしづらさ」という考えの具体的な考察状況が示された文献部分を一部引用する。

「やどかりの里」の運動は「地域社会の中でいわゆる精神障害者といわれる人が、社会的弱点をもちあわせながら、生活を共有していけるような地域社会の実現」を推進していくことにある。(ID-7谷中輝雄(1974)「病院より地域へ 医療より福祉へー患者との共同生活活動からみた病院医療ー」『病院精神医学』38, 84-92., p. 89)

それが病気のためであれ何であれ生活上に起ってくる種々の困難性を生活障害と言っております。そして、種々の困難なことに対して、どう取り組むか、どう乗り切るか、また時にはどう避けて通るかというようなことを通じて困難なことにぶつかりながらも、たくましさを自分のものにしていく、その1つの過程が福祉的援助と言っていいかと思います。(ID-16谷中輝雄(1976)「『精神障害者』の社会復帰についてー『やどかりの里』5年間の活動をふりかえって―」「やどかりの里」セミナー委員会編『「精神障害者」の社会復帰への実践ー「やどかりの里」の試み―』(pp. 11-52), やどかりの里., p. 42)

生活のできづらい部分は失敗をおそれたり、自信がないためにたちむかえない事柄でもあった。その中で仲間に、時にはスタッフに支えられて、経験を続けて行くことによって、独立性をかちとってきた。このように、患者の生活基盤を確立することや、弱さを持ちつつも共に生活が送れる社会の実現化へと働くのも、ワーカーの重要な役割なのである。(ID-21谷中輝雄(1976)「退院者と生活をともにしてー中間施設『やどかりの里』の試みー」日本精神医学ソーシャル・ワーカー協会編『精神科領域に働くソーシャルワーカー』(pp. 16-18), 50年度専門職制度委員会., pp. 17-18)

精神障害者を「病気」の側面からだけ捉えるのではなく、生活者として「症状」を持ちながら地域社会の中で、生活のしずらさを持ちつつもあたりまえの生活が営める様に支えていける事が求められる。精神障害者には「病者」としての見方よりも、主体的な「生活者」として、その「生活をどう支えるのか」の視点も必要といえる。(ID-42高畑隆・谷中輝雄・田口義子・荒田稔(1979)「精神障害者の生活への諸条件」松下福祉基金事業研究報告書, やどかり研究所. (※再録:(1983, 『Sub note : やどかりの里研究業績集』3, 129-136.), p. 130)

健康な部分をみつけ、そのことを強化し、そして、そのことによって、健康な部分がどんどん社会の中で発揮できていったならば、それと比例的に不健康な部分が、徐々に小さくなる。(中略)つらい部分があっても、むしろこの社会の中で自分はこの仕事、自分はこのこと、家ではこういう役割、そのことを必死にやろうとして、そのことでつらい部分を、そんなに拡げたりしないで、耐えてやっていける。そのことが、私たちにとっても重要な面ではないでしょうか。(ID-11谷中輝雄(1974)「社会生活におけるとまどい」やどかりの里社会復帰講座係編『精神障害者への理解〔Ⅱ〕ー病と社会生活ー』(pp. 15-33), やどかりの里., p. 33)

特に分裂病者においては、自由で、開放的で、批判されない状況においてこそ、はじめて自己表現をなしうると考える。爽風会の場は、そのような自由な雰囲気のもとに、苦手な部分をもちながらも、その他の部分で補ったり、また、健康な部分を最大限に生かす努力をすることによって、主体性を養っていく事にあった。スタッフの役割は、メンバー中心の活動を支持することにあり、個々人については、その困難性に焦点づけたサポーティブな方法を必要とした。(ID-12谷中輝雄・田口義子(1974) 「やどかりの里における爽風会活動を通して」『看護技術』20(16), 30-37., p. 35)

健康な部分を伸ばすことにより、社会の中で一人の人間として生きてゆくことが主なる目的であったにもかかわらず、発展性のないものになってしまうことを恐れて、長期宿泊を廃止し、近所のアパートにそれぞれ住むようにした。(ID-21谷中輝雄(1976)「退院者と生活をともにしてー中間施設『やどかりの里』の試みー」日本精神医学ソーシャル・ワーカー協会編『精神科領域に働くソーシャルワーカー』(pp. 16-18), 50年度専門職制度委員会., p. 17)

吉松先生の言葉はやどかりの里の姿勢や考えに通じるところが多かっただけでなく、精神分裂病をどのように考えるかを問いかけられたものでした。(中略)「人間全体が病気になっているのではなく、病気の部分と健康な部分とがあるわけですから、その健康な部分に働きかけて、その健康な部分をどんどん大きくしていく、強くしていく」考えが大切である、と述べた。(ID-30谷中輝雄(1978)「講座をふりかえって」やどかりの里編『社会復帰ということ』(pp. 239-256), やどかり出版., p. 244)

病院医療の中にいると、どうしても具合の良し悪し、症状を中心に見てしまうけれども、地域の中で生活し始めると、症状はともあれどうやって生活していくかというようなところでその人の持つ力を再発見して、むしろ健全な方により強く眼を注がれるということを指摘されたと思いますが、それは皆さん共通のように思います。(ID-39石水喜輝・小倉暢夫・岡上和雄・加藤博史・日下部恵二・半田芳吉・船越真知子・三木蔚・谷中輝雄(1979)「精神障害回復途上者の共同住居の試み」『精神障害と社会復帰』1(1), 27-51., p. 40)

ID-7, 16, 21, 42の文献からは、「生活のしづらさ」という考えが、1970年代を通して「社会的弱点」、「生活障害」、「生活のできづらい」、そして「生活のしずらさ」と積極的に形成されていったことに対し、ID-11, 12では「やどかりの里」の実践を踏まえて語られていた「健康な部分」という考えは、その後一時期影を潜めている。語られたとしてもID-21のように「にもかかわらず」という言葉が添えられ、消極的な印象を残している。

当時の精神保健医療福祉の動向を鑑みると、この背景には2点の環境の要素が関連していると考えられる。第1の要素は、1974年頃から1977年頃までに「やどかりの里」が財政危機に陥っていた点である。この時期は直面した危機への対応に追われる中で、自らの活動を肯定的に振り返る余裕が無かったため、文献に「健康な部分」という考えにつながる言葉が出現しなかったのではないかと考えられる。第2の要素は、当時の精神保健医療福祉施策において、精神障害のある人が福祉の対象では無く医療の対象としてしか捉えられていなかった点である。まずは生活者として捉える視点の重要性を発信し、福祉の対象に乗せるために「生活のしづらさ」という考えの形成が優先されたのではないかと考えられる。

しかし、その後1970年後半には再び谷中の文献に「健康な部分」という考えにつながる言葉が出現することとなる。ID-30が講座の記録、ID-39の文献が座談会の記録であることを踏まえると、「健康な部分」という考えが再考された背景には他の支援者との語り合いがあったことが示唆される。

2. 1980年代の「健康な部分」と「生活のしづらさ」

以下表3は、1980年代における各重要概念の頻出度を表したものである。

表3を見ると、1980年代の「健康な部分」という考えの頻出度やバリエーションは1970年代に比べて徐々に増えていったことが分かる。特に1980年には「健康な部分」という考えの頻出度が「生活のしづらさ」という考えの頻出度を上回っている。この現象の背景にはどのような環境からの影響があったのであろうか。以下に1980年代における「健康な部分」と「生活のしづらさ」という考えの具体的な考察状況が示された文献部分を一部引用する。

障害者の生活のしずらさを彼らの持つ弱点(生活能力の乏しさ)として分析し、その克服のために、残存能力を補足強化する援助形態を考えた。すなわち、従来社会復帰活動と呼ばれているものを、社会生活の持続という観点から整理し、システムとしてのあり方を論じた。その中で鍵概念として、パートナーを提案した。(ID-60佐藤三四郎・橋口宆枝・渡嘉敷暁・高畑隆・谷中輝雄・荒田稔・田口義子(1980)「わが国におけるシステム化の動向―生活支持の観点から―」『臨床精神医学』9(6), 647-655., p. 652)

グループ担当者は、動機づけもなく動きのない方を仲間に入れていくためにはどうしたらいいか悩みました。そして、その人の関心、その人の興味を聞き出しながら、一緒にできるものは何かを、あらためてことこととやり始めていきました。(ID-70谷中輝雄編(1980)『仲間づくりの方法と実際―精神科領域における―』やどかり出版., p. 144)

大体が<やどかりの里>の世界の中では、精神病棟の経験を持っていろんなことを配慮する人間が、はらはらしながら後ろで見ていたということがあるんですが、むしろ健康な面で付き合っていく連中がぐいぐいと新しい局面を見せつけていったんですね。(ID-74谷中輝雄・田口義子・荒田稔・最上キクエ・中川美幸・高橋律子・久常節子(1980)「<やどかりの里>の実践に学ぶ―“生活を支える”ことの意味を追って―」『保健婦雑誌』36, 20-38., p. 32)

病的部分とみるのではなく、弱い部分をもっていると考えました。そこで、いかにして弱い部分を補強できるかといった生活の知恵をもって創意工夫が求められました。(ID-106谷中輝雄(1983)「精神障害者の生活から社会的復帰を考える」『紀要・やどかり』111-114., p. 111)

健康な部分に目を注いでいけば、どんどん健康な部分は育つ。健康な部分が育つ分、不健康な部分が小さくなっていく、それなんだということに、実は職親さんから気づかされた訳です。(ID-140谷中輝雄(1988)「社会復帰―回復過程をめぐって―」『精神分裂病―その理解と社会復帰―』17, 107-145., p. 117)

彼らの健康な側面が発揮される度合に比例して、弱い部分は補われてくるのである。それでも生活は機能していくものである。「患者」として病気の部分を関心の中心に置いてかかわるものではなく、地域で生活している人として、生活の困難さにどうかかわれるか検討すべきである。生活のしづらさをどう乗り越えていけるものか、共に工夫することが大切である。これらのかかわりが一貫した流れであったといえよう。(ID-156谷中輝雄・藤井達也編著(1988)『心のネットワークづくり』松籟社., p. 49)

危機は成長の機会でもあったのである。危機の都度、つぶれそうになる人をみんなで支えた連帯感や危機を乗り越えた後のたくましくなっていった一人一人のことを考えると、大変なことではあるが、このような厳しさの中でもみぬかれることも必要であったと思われるのである。(ID-164谷中輝雄(1989)「『働く場』(授産施設、小規模作業所)に期待されること―やどかりの里における作業の変換を通して―」『社会精神医学』12(2), 131-135., p. 133)

この頃になると、ID-60, 106, 156, 164の文献が示すように、「健康な部分」と「生活のしづらさ」という考えは同じ文脈の中で共存して語られていくこととなる。また、ID-70, 74, 140の文献からは、「健康な部分」という考えの頻出度やバリエーションの増加の背景に谷中の他の支援者の良い実践から学ぶ姿勢があったことが示唆される。ID-70における「グループ担当者」とは、谷中が精神病院勤務時代から協働していた心理士の田口義子のことであり、ID-74の「健康な面で付き合っていく連中」とは、「やどかりの里」の活動初期から専従職員として活動を支えてきた荒田稔らのことを指している。谷中はこうした共に活動を実践した支援者仲間や地域の職親の良い実践から学ぶことにより「健康な部分」という考えを深めていったのだと考えられる。

3. 1990年代の「健康な部分」と「生活のしづらさ」

以下表4は、1990年代における各重要概念の頻出度を表したものである。

表4からは、1990年代における「健康な部分」と「生活のしづらさ」という考えがほぼ同じ頻度で出現していることが分かる。また、その内容もより統合されていった時代であった。以下に「健康な部分」と「生活のしづらさ」という考えの統合が示された文献部分を一部引用する。

当事者でなければわからない痛み、苦しみを乗り越えて、障害ということを生かしていく。そして一般就労や所得の問題は一方にあるけれど、生活の質や豊かさ、あるいは健常者といわれている人たちが失いがちな思いやり等、真に大切なことを作業所の活動がなげかけている、そんな感じがしました。(ID-190藤井秀一・高味文雄・菅原進・戸田実・坂下隆志・谷中輝雄(1991)「障害を生かした生き方を求めて―病をかかえながら運営に携わって―」『精神障害と社会復帰』11(1), 4-15., p. 15)

弱さを誇ることもないけれど、弱さが強さに変わっていくこともある。開き直りは逆転のチャンスでもある。(ID-209谷中輝雄編(1993)『旅立ち 障害を友として―精神障害者の生活の記録―』やどかり出版., 頁付けなし)

病気の体験は病気をした本人にしか語れない。また、病気をしたことから学ぶことは多い。そこで、病気をしたことを特殊なことと考えないで、1つの体験として、まだ経験されてない人たちへ語っていくことは、彼らの特技として捉えてみるとよい。(ID-228谷中輝雄(1996)『生活支援―精神障害者生活支援の理念と方法―』やどかり出版., p. 103)

ID-190, 209, 228の文献においては、経験が思いやりに、弱さが強さに、また病気の経験が特技に変わっていくという表現で「健康な部分」と「生活のしづらさ」という考えが統合されている。また、これらの文献からは、谷中自身が精神障害のある人から学ぶ姿勢が現われていることはもちろん、「健常者といわれている人たち」や「まだ経験されてない人たち」も精神障害のある人から何を学んでいけるか、その学び合いにおける共生の展望が示唆される。

これらの「健康な部分」という考えの考察が進んだ背景には、当時の精神保健医療福祉施策の展開による追い風もあったと考えられる。当時の精神保健医療福祉施策においては、1987年に精神衛生法から精神保健法への改定が行われ社会復帰施設が法的に認められると、1993年の障害者基本法で精神障害が身体障害、知的障害と並ぶ3障害に認められ、1995年には精神保健法が精神保健及び精神障害者福祉に関する法律に改定され、初めて日本の精神保健医療福祉に関わる法律に「福祉」という言葉が明記されていった。このため、精神障害のある人の「生活のしづらさ」を主張する必要性が一旦落ち着き、より「健康な部分」に焦点を当てることができる環境が整っていったのではないかと考えられる。

4. 2000年以降の「健康な部分」と「生活のしづらさ」

以下表5は、2000年以降の各重要概念の頻出度を表したものである。

表5を見ると、2000年以降は「健康な部分」と「生活のしづらさ」という考えの頻出度が逆転していることが分かる。また、この時期は「健康な部分」という考えを表す言葉として「ストレングス」という言葉も使用され始めた時期でもあった。この背景には、カンザス州立大学でストレングスモデルを実践していたラップ(Rapp, C, A.)との出会いが関連していると考えられる。江間(2014)江間由紀夫(2014)「『生活支援論』再考―谷中輝雄の遺したもの―」『東京成徳大学研究紀要―人文学部・応用心理学部―』21, 45-53.によると、谷中は『精神障害者のためのケースマネジメント』(1998)を出版したラップに関心を持ち、2003年のラップ来日時には対談も果たしたという(p.48)。谷中自身も、ID-250の中で以下のように述べている。

かつて弱みであったものも、考えようによっては強みに変えることができるのである。このように、強み、弱みを意識して、強みに焦点を当て、さらに伸ばしていくことに心がける。/この点も生活支援活動にとって重要であり、ストレングス視点からさらに学び、活動に位置付けたいものである。(ID-250社会福祉法人全国精神障害者社会復帰施設協会編(2002)『精神障害者生活支援の体系と方法—市町村精神保健福祉と生活支援センター—』中央法規出版., pp. 139-140)

これらの情報が示すように、谷中は自らの実践を『生活支援―精神障害者生活支援の理念と方法―』(1996)にまとめた後も、他の支援者の良い実践に関心を持ち、「健康な部分」という考えを発展させることに意欲的であったと考えられる。一方で、「生活のしづらさ」という考えも晩年まで語り継がれていたことも表21は示している。このことから、「健康な部分」と「生活のしづらさ」という考えは最期まで谷中の価値の中で共存して考察されていたのだと捉えることが出来る。

5. 全年代を通した「ごく当たり前の生活」の変遷

本節におけるリサーチクエスチョンは「大変な状況の中でもストレングス視点に基づいた実践が実践されるのは、どのような要素が関連しているからなのだろうか」であり、その仮説は「多様な人々との関わりがストレングス視点に基づいた実践を支えるのではないか」であった。そして、谷中の「健康な部分」と「生活のしづらさ」という考えの形成過程分析を通して、「健康な部分」の出現頻度が増加した背景には他の支援者や精神障害のある当事者との語り合いや協働があったことが明らかになり、その仮説は立証された。また、谷中自身が他の支援者の良い実践や精神障害のある当事者の力から学ぶ姿勢を持っていたことも、ストレングス視点に基づいた実践を支えた一つの要素として発見された。