第一章 谷中輝雄はどのように精神科ソーシャルワーカーとしての価値を形成したか
第二節 「ごく当たり前の生活」の形成過程(2/3)

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Ⅴ. 結果

1. 1970年代の「ごく当たり前の生活」

以下表2は、1970年代における各重要概念の頻出度を表したものである。

表2には、谷中の文献に「ごく当たり前の生活」につながる言葉が初めて使用されたのは1972年(ID-4)であり、「ごく当たり前の生活」の要素である「ごく当たり前のつき合い」という考えが初めて使用されたのは1974年(ID-12)であったことが示されている。以下にID-4とID-12における「ごく当たり前の生活」につながる言葉が使用された部分を引用する。

以前、デイケアのメンバーから要望されていたことの中からいくつかが、宿舎建設を機に実現化されようとしています。それは、(1)一般の人と何ら変りない生活様式で、徐々に社会になじんでいくこと。(2)退院してもまだ十分で内面を仲間と一緒にとり返し、仲間との助け合いや相談相手とともに社会生活を持続していくこと。(3)問題があったり、入院するまでではないが生活が乱れがちな時に、一時的に休息できる家がほしいということ。(4)定期的な会合がもてるようなたまり場があったらということ。(ID-4谷中輝雄(1972)「宿舎完成によせて」『機関誌やどかり』1(2), 3., p. 3)

今日では、医療の枠組みの中にいないことで、メンバーと我々の関係は、社会の中で平等な役割をになう人間としてのつきあいがでてきた。このあたり前の事が、なぜ医療の枠組みの中にいた時の我々が持ちえなかったのか、あるいは、意識できなかったのか。(中略)病院で駄目なら地域の中でやるしかないという、緊迫感の中で生まれた関係である事も原因していよう。メンバーがこの「やどかりの里」を存続させ、発展させなければならないとして、スタッフと協同したことから生じたものである。ここではともに"にない手"として歩んできたことを通しての関係である。(中略)このごくあたりまえの人間としてのつきあいを通しての爽風会活動は持続していくであろう。(ID-12谷中輝雄・田口義子(1974) 「やどかりの里における爽風会活動を通して」『看護技術』20(16), 30-37., pp. 36-37)

ID-4には、「一般の人と何ら変りない生活様式」という「ごく当たり前の生活」につながる考えが精神障害のある当事者からの要望より展開したことが示されている。また、ID-12が谷中と精神病院勤務時代から共に「朋友の会」を支えてきた心理士の田口義子との共著であることから、「ごく当たり前の生活」の要素である「ごく当たり前のつき合い」という考えは、共に活動を担ったメンバーや他のスタッフとの協働より展開したことが示唆される。

なお、当時のやどかりの里は、その活動に法的根拠が無かったため、1974年から請願活動を経て市の助成金がおりる1977年までは補助金に頼ることが出来ず、財政の危機に晒されていた時代でもあった(谷中輝雄・藤井達也, 1988谷中輝雄・藤井達也編著(1988)『心のネットワークづくり』松籟社., 資料6)。

表2を見ると、谷中の文献の中で「当たり前」という言葉が使用され始めた時期と、「やどかりの里」が財政危機に陥った時期は、同じ1974年と一致する。このことから、「ごく当たり前の生活」という考えが生成された背景には、危機を乗り切るために活動の意義を共有する必要があったことが考えられる。現に谷中の論考集には以下の記述が残されている。

人になんといわれようが、私には書かねばならない事情があったのだ。/活動初期の頃のやどかりの里に対する批判はかなりのものだった。なかでも『金もうけのためにしている』という批判は正直いって頭に血がのぼった。その時は怒りの感情を押し殺して実践レポートを書きまくった。(谷中輝雄, 1993谷中輝雄編(1993)『谷中輝雄論稿集Ⅰ 生活』やどかり出版.
 谷中輝雄編(1993)『谷中輝雄論稿集Ⅱ かかわり』やどかり出版.
 谷中輝雄編(1993)『谷中輝雄論稿集Ⅲ 社会復帰』やどかり出版.
, 頁付けなし)

以上の分析結果より、「ごく当たり前の生活」という考えは1970年前半より既にその要素が揃い始め、精神障害のある人の要望や他の支援者との協働より発展し、その背景には危機を共に乗り越える過程があったことが明らかになった。

2. 1980年代の「ごく当たり前の生活」

以下表3は、1980年代における各重要概念の頻出度を表したものである。

1980年代は、「当たり前」という言葉が徐々に「普通」という言葉と区別して扱われていった時代であった。以下にその変遷を示すため、「当たり前」と「普通」という言葉が併記された1980年代の文献を引用する。

従来は”この人たちに理解を, 理解を”と声を大に求めていた我々が、当たり前のつき合い、極く普通のつき合いをそこで再現していくことで、また別な面が開かわれてきたわけですね。(ID-73谷中輝雄・田口義子・荒田稔・最上キクエ・中川美幸・高橋律子・久常節子(1980)「<やどかりの里>の実践に学ぶ―“生活を支える”ことの意味を追って―」『保健婦雑誌』36, 20-38., p. 24)

もろに社会の中で普通の人並みにやろう。「ごく当たり前」の「ごく」というのは、当時の現実は、「人並みにボロを出さずにやろうよ」ということでした。(ID-132谷中輝雄(1988)「生活のしづらさをめぐって」『精神分裂病―その理解と社会復帰―』17, 69-106. (※1986年12月19日の記録), p. 84)

私も社会復帰活動というのは自立路線、一般就労をめざして、あたりまえの生活をしていこうよと考えて、実践してきた。病気や障害を持ちながらもそれを克服して、障害として認定するということではなく、普通の人になりきろうという努力をしてきた。これからもそういう努力をしていくつもりではいるのですが、もう一方でいろいろ挑戦はしたが、その結果かえって追いこまれて状態を崩してしまったという人も現に見えてきた。(ID-133浅野弘穀・酒井昭平・半田芳吉・内田晋・谷中輝雄(1987)「患者さんが地域で生活するために」『精神障害と社会復帰』7(1), 43-55., p. 43)

彼らと接触している時に私達の願望は、普通の人あるいは匿名性の人というふうな形になっていってほしいと思いました。活動を続けてきた中でかなり長い期間自立路線でした。病気のことはいいから普通の人になりきれと発破をかけてやってきた。10年くらいはよかったのですが、やっぱり挑戦しても挑戦してもむしろその挑戦させる課題性を持つこと自体がその人を追いつめるんですね。その人のエネルギーが補充されないままに不幸にしてまた病院に戻る。結果としておいこんでしまった。(ID-138蜂矢英彦・谷中輝雄(1987)「東京都のネットワークづくりの試み」『精神障害と社会復帰』7(1), 4-21., p. 19)

グループの中で、対人的接触を学び、病気に対するかまえを作り、ごくあたりまえの生活の実現に向けて準備をしたわけです。(中略)ふりかえってみると、このグループ活動を中心としたやり方も、「就労」を究極的目的としたものではありませんでしたが、やはり自立路線であったわけです。生きがいや、やりがいを持つことを「仕事」の中に求め、結果として、ごく普通の人になることへの期待があったともいえましょう。(ID-151谷中輝雄(1988)「精神保健法の成立とこれからの社会復帰―やどかりの里の活動を通して―」『保健の科学』30(4), 228-232., p. 229)

ID-73、132ではまだ「当たり前」と「普通」という言葉はほぼ同意義で使用されているが、ID-133、138、151には、その2つの言葉を同意義として扱っていくことへの谷中の迷いが表れている。特にID-133、138からは、「ごく当たり前の生活」という考えを軌道修正せざるを得ない現場の課題に谷中が直面していた旨が記されている。

なお、当時は1981年の国際障害者年や1987年の精神衛生法から精神保健法への改定等、日本の精神保健医療福祉が大きく動いた時代であった。「やどかりの里」も谷中が理事長に就任し、地域精神衛生活動や社会復帰施設建設等活動が広がる最中にあった。しかしながら、組織の活動が広がるということは、意思決定過程がより複雑になるということでもある。1980年代は赤字への懸念から活動拡大に対する反対の声が内部から上がり、世代交代や谷中自身の体調の課題も持ち上がった時期でもあった(谷中輝雄, 1987谷中輝雄(1987年2月)「生き生きとした活動のために」『保健婦雑誌』43(2), 10-12., pp. 11-12)。一方で、これらの課題は、自由な職場環境の必要性や精神障害のある人が講演を行うことの有効性に谷中が気づく契機となっていった(谷中輝雄, 1987谷中輝雄(1987年2月)「生き生きとした活動のために」『保健婦雑誌』43(2), 10-12., p. 12, 谷中輝雄, 1988谷中輝雄(1988)「社会復帰―回復過程をめぐって―」『精神分裂病―その理解と社会復帰―』17, 107-145., p. 134)。

以上の分析結果より、「ごく当たり前の生活」という考えは、時代や現場に立ち現れる課題に合わせて軌道修正がなされ、さらに課題を契機としてふくらみを持っていったことが明らかになった。

3. 1990年代の「ごく当たり前の生活」

以下表4は、1990年代における各重要概念の頻出度を表したものである。

1990年代は、1980年より軌道修正された「ごく当たり前の生活」という考えの方向性がより明確になった時代であった。具体的には、「ごく当たり前の生活」という考えが「ノーマライゼーション」の理念も含めて議論され、その独自性が示されていくこととなる。以下にその変遷が示された文献を引用する。

僕自身が「やどかりの里の目標としているのはノーマライゼーション的な理念である」と文章に書いているのですが、ノーマライゼーションという理念の受け取り方も人によってずいぶん違っています。ノーマライゼーションを「普通の生活を実現する」というふうに捉えると、「やどかりの里」の目標とは違うのではないでしょうか。(中略)精神障害者の方々は個性というか、「生活臨床」で言ういろいろな癖、その人なりの行動様式の特性を持っています。だからその特性を理解して「普通の生活に馴染ませる」というのとは全く発想が違うのです。そういう癖そのものを丸ごと飲み込んで、周りが許容すれば、それでその人の生活は成り立つと思うのです。(ID-220谷中輝雄・石川左門・丸地信弘・藤田雅美・秋田昌子・増田一世・松田正己(1995)『インターフェースの地域ケア―語り合い, 響き合い, 共に生き, 創り合う―』やどかり出版., pp. 235-236)

一人一人の個性や独自性を大切にしていくことは「人並みに」とか、「普通の生活」にはならないかも知れません。その人なりの生き方や人生を生きられるように支援することです。/その人らしく生き、生きててよかったと実感できることこそが、生活支援の中心であります。これはノーマライゼーションを超えるものではないでしょうか。(ID-223谷中輝雄(1996)「生活モデルの援助活動―理念と方法―」『地域保健』27(8), 46-59., p. 52)

「ヴィレッジ」では経済的なことも含めて「普通の生活」というレベルに到達させようとしています。でも私は最近、「普通の生活」がそんなにいいのだろうか、と考えるのです。彼なりの生活、彼なりの生き方ですごしていけばいいのではないか、経済的には生活保護でもいいのではないか、と思っています。(ID-225谷中輝雄(1996)「ありのままで生きるための援助とは―『ヴィレッジ』と『やどかりの里』―」『響き合う街で』1, 32-38., pp. 35-36)

個々人を生活支援するには専門性を越えて、その人に会った支援を行うことが重要とされ、それぞれの人が、その人なりに生きていけるような生活条件や地域環境づくりに重点が移っていかなければならないのであろう。その時にはノーマライゼーションの理念を実現させると同時に、その人らしく生き生きと障害をもっている人も生きられる地域であったら、ノーマライゼーションを越えたものともいえるのではないかと考えている。(ID-227谷中輝雄(1996)「やどかりの里の活動と保健に期待すること―地域生活支援体制づくりを軸にして―」『保健婦雑誌』52, 773-779., p. 779)

ここで「ごく」を使うに当たって、私は特別の意味を込めているのである。「その人なりの」とか、「その人らしい」とかといった意味が込められているのである。「その人なりの」といった場合、その人なりの姿をありのままに認め、受け入れ、ともに生活をしていく、といった意味があり、「その人らしく」といった場合、その人の独自な生き方を認め、受け入れ、ともに生活していく、といったことを言うのである。(ID-228谷中輝雄(1996)『生活支援―精神障害者生活支援の理念と方法―』やどかり出版., p. 148)

1980年代における文献のID-132で「人並みにボロを出さずにやろうよ」という意味が示されていた「ごく当たり前の生活」の「ごく」は、ID-228では「その人なりの」や「その人らしい」と意味付けられている。この「ごく」の意味づけの流れは1995年頃から来ていることが上記の文献より明らかになった。代わりに、1980年代には違いが曖昧であった「普通の生活」と「ごく当たり前の生活」は、「『普通の生活に馴染ませる』というのとは全く発想が違うのです」(ID-220)、「『普通の生活』がそんなにいいのだろうか」(ID-225)という言葉が示す通り明確に区別されていった。

また、上記の文献が示すとおり、1990年代の「ごく当たり前の生活」は、「ノーマライゼーション」の考えやヴィレッジの実践という海外における精神保健医療福祉の動向からも影響を受けた時代であった。しかし、その影響は同一化ではなく、相違の探索を促すものであった。1990年代の「ごく当たり前の生活」という考えは、海外における精神保健医療福祉の動向と比較検討されることにより、その考えの独自性が探索されていったのだと考えられる。

なお、当時は我が国の精神保健医療福祉に関わる政策においても「ノーマライゼーション」の考えが明示されていった時代であった。1993年の障害者基本法で精神障害が身体障害、知的障害と並ぶ3障害に認められると、1995年には「ノーマライゼーション7カ年計画」という副題で障害者プランが誕生した。また、同じく1995年に精神保健法が精神保健及び精神障害者福祉に関する法律(以下、精神保健福祉法と略す)に改定され、初めて日本の精神保健医療福祉に関わる法律に「福祉」という言葉が明記された。この精神保健医療福祉に関わる政策の流れの中で谷中は公衆衛生審議会委員を経験し、「やどかりの里」が先行して活動を始めた精神障害者地域生活支援センターは1999年に精神保健福祉法に法定化されていった。また、この時代は「やどかりの里」において、「セルフヘルプの学び」をテーマとしたカリフォルニア研修やヴィレッジ研修といった海外研修が実施されていった時代でもある(谷中輝雄 1996谷中輝雄(1996)「アメリカから学ぶもの」『精神障害と社会復帰』37, 3., p. 3)。

谷中はこうした時代背景の中で海外の考えや実践の影響を受け、「ごく当たり前の生活」の独自性を探索していったのだと考えられる。

以上の分析結果より、「ごく当たり前の生活」という考えは、海外の考えや実践との比較検討を通してその独自性を確立していったことが明らかになった。

4. 2000年以降の「ごく当たり前の生活」

以下表5は、2000年以降の各重要概念の頻出度を表したものである。

2000年以降は、「ごく当たり前の生活」という考えの対象が広がりを見せていく。以下にそのことが示された文献を引用する。

今、この年、今年と来年は、私は歴史の大きな節目だというふうに思っております。それは、先ほど申しましたように、ノーマライゼーションを具現化するための1つのステップの第一であるということと、それから、障害を特殊化しないで、ごく当たり前の生活をみんな一緒に共有するという、共存するということ。(ID-252内閣府(2002)「『新しい障害者基本計画に関する懇談会』の開催について」(2021年8月17日閲覧)., 第2回議事録)(※外部サイト参照)

今回の震災のことや精神の病いの人たちのことから、単なる平均化した生活だけが目標ではないことを考えさせられるのである。その人なりの豊かな人生を考える時に、あたりまえの生活をめざして、その人なりの豊かな人生を目標にして、協力しあいながら共に生きていくことが目標なのである。(ID-284谷中輝雄(2012)「終章 精神障害者と現代社会1あたりまえの生活をめざして」福祉臨床シリーズ編集委員会編『精神保健福祉士シリーズ8—精神障害者の生活支援システム—』(pp. 220-223), 弘文堂., p. 223)

ID-252は内閣府の「新しい障害者基本計画に関する懇談会」における谷中の発言記録であり、ID-284は東日本大震災の翌年に出版された文献である。この2つの文献が共通して示していることは、共生の考えを通して「ごく当たり前の生活」の対象が精神障害のある人から「みんな」や「震災のこと」にも拡大されていった点である。このことから、2000年以降の「ごく当たり前の生活」という考えは、精神障害のある人だけでなく支援を必要とする全ての人を対象とするよう汎化が進んだ時代であったと言える。

なお、当時は2000年の社会福祉法成立により社会福祉基礎構造改革の方向性が法的に示され、これまで行政主導で支援を行ってきた措置制度から利用者がサービスを選択する利用契約制度へと各福祉分野が移行していった時代であった。障害福祉分野も2003年に支援費制度が施行され、障害のある人やその家族が市町村に支援費の申請を行い、サービス提供者を選択する仕組みが整えられていった。しかしながら、財政面の課題や支給プロセスの不透明さが指摘され、2005年に制定された障害者自立支援法では、サービス使用量に応じて利用者が費用を1部負担する応益負担や市町村審査会が審査を行う障害程度区分が導入されていった。なお、この応益負担制度も指摘され、2012年の障害者自立支援法の改正では障害程度に応じて費用を負担する応能負担制度へと変わっていった。

この障害福祉分野の制度改革を生んだ社会福祉基礎構造改革が議論された背景には、少子高齢化、国際化の進展、低経済成長という社会状況の変化があった。その上で、1988年の「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」では、社会福祉の目的が以下のようにまとめられている。

これからの社会福祉の目的は、従来のような限られた者の保護・救済にとどまらず、国民全体を対象として、このような問題が発生した場合に社会連帯の考え方に立った支援を行い、個人が人としての尊厳をもって、家庭や地域の中で、障害の有無や年齢にかかわらず、その人らしい安心のある生活が送れるよう自立を支援することにある。(中央社会福祉審議会社会福祉構造改革分科会, 1998中央社会福祉審議会社会福祉構造改革分科会(1998)「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」(2021年7月25日閲覧), p. 3)(※外部サイト参照)

上記の文献には、汎化の流れは社会福祉そのものにも起きていたことが示されている。その上で、谷中はこの社会福祉全体の流れに対して以下のように述べている。

今、制度化ということで、政策とか制度というのは変わっていきますが、実態が伴っていない状態なのです。だから、現在の人たちの研修とかね、そういうものを高めていかないといけませんね。(中略)でも、ほんとはね、「世の中変われ」って心の中で思ってるんだけど、まずその前に自分が変わんなきゃいけないね。相手に対しても、「変われ」って心の中で叫んでるんだけど、相手が変わる前に私が変わらないと変わらないよね。だからそれが基本なんだよね。やっぱりそうなると、ソーシャルワーカーになるということは、重いこと。でもすごく、自分自身を磨くためには素敵な、それに自分を磨くために給料もらえるなんて、さらに素敵なこと・・・と今では思える。(佐伯浩子・吉弘里奈・福澤佳香・谷中輝雄, 2008佐伯浩子・吉弘里奈・福澤佳香・谷中輝雄(2008)「いくつもの熱く高い壁―それでも挑み続ける 谷中輝雄氏を訪ねて―」『Socially』16, 99-105., p. 104)

上記の文献からは、谷中の視点が自らも含めた人の成長・成熟に広がっていったことが読み取れる。谷中はこの頃、2000年には北海道医療大学に、2007年には1997年に一度勤めた仙台白百合女子大学に教授として就任している。谷中の視点が広がった背景には、これらの大学における教育の経験が関連していると考えられる。先に引用した表5のID-284における考えは、谷中が東日本大震災を体験した学生達の語りを聞くことにより「ごく当たり前の生活」が再考察されたものであった。

これらの結果から、社会福祉全体が汎化の流れを辿ったことと、教育を通して谷中の視点が人そのものに広がっていたことが、「ごく当たり前の生活」の汎化が進んだ背景として明らかになった。

5. 全年代を通した「ごく当たり前の生活」の変遷

本節におけるリサーチクエスチョンは「『ごく当たり前の生活』という考えの形成過程において、早川進以外の影響はあったのか、それはどのようなものか」であり、その仮説は「『ごく当たり前の生活』という考えの形成過程には、精神障害のある人や他の支援者仲間からの影響もあったのではないか」であった。そして、「ごく当たり前の生活」という考えの形成過程分析を通してその仮説は、①「ごく当たり前の生活」という考えが精神障害のある人や他の支援者と危機を共に乗り越える過程の中で生まれた産物であったという形で立証された。また、「ごく当たり前の生活」という考えは、②時代や現場に立ち現れる課題に合わせて軌道修正及び発展を成し遂げていったこと、③海外の考えや実践との比較検討を通して独自性を確立していったこと、④精神障害のある人だけでなく支援を必要とする全ての人を対象とするよう汎化の流れを辿っていったことが明らかになった。なお、これらの背景には、精神障害のある人や国内における他の支援者に加えて、海外の支援者や学生との関わりの影響もあったと考えられる。